撮る資格

以前のブログ「なぜ、ぼくがGIFTをやるのか」にも関連する話ですが、現在、がんなど、病気とたたかう方々へ向けた『LIFE』というプランを軸に、告知活動を行っています。

※ここでは、日本で死亡率の多くの割合をもつ、がんという病気と、その患者さんのことを中心に話していきます。ご了承いただければと思います。

僕は、まだ病気とたたかう方のメッセージムービーは撮ったことがありません。
僕は、そんなメッセージムービーの撮影を通して、そんな方々の力になれると信じていますが、本当のところは、まだ分かっていません。

「がん患者さんを撮る資格があるのか?」というのは、日々、自問する問題でもあります。
命にかかわる病気になられた方々のことは、どんなに考えても、想像の範囲を超えることができないのは事実。

僕はいま、がんではないから。患者さんが抱える不安や痛み、苦しみを理解することは…到底難しいです。

少しでも患者さんのことを知ることができたらと、HPや書籍、ブログやSNSを見る日々が続いています。

その中で、一番衝撃を受けたのが、Instagramでした。

インスタは、家族写真家の活動の一環としてもちろん利用してますし、個人としても、投稿はしないまでも、みんなが使うようなやり方で、普通に楽しんで使っています。
多くの人の使い方は、どこかへ旅行したとか、美味しいスイーツを食べたとか、ライブいったとか、そんな写真をあげています。

だから、基本的にポジティブというか、華やかなアカウントが多いと思うんです。だからこそ、インスタグラムでがんのことを検索したときは、大きな衝撃を受けました。

「実は、がんになりました。」
という投稿があります。その投稿は、ギャラリーをぱっと見ただけでは、分からないことが多いです。

写真自体は、日常の写真だったりして、女性だったら、旅行やスイーツやライブだったり。でも、ひとつひとつ読んでいくと、さっきのような文章が書かれている。

「写真に撮るもの」=「自分が見るもの、周りの人々と生活」は、何も変わっていないのに、自分(の中)だけは、がんと知る前と知った後で、まったく違うものをなっている。

その違和感は、半端じゃないんじゃないか。その日その時を境に、人生が変わったのだろうか。自分だけが、なにか、日常のストーリーのようなものから外れた気持ちになってしまうんじゃないか。


そういうことを、すごく想像します。自分が同じ立場だったらとしたら、どんな風に考えるのだろう。なにを思うんだろう。

でも、一方で、それは非常に勝手な想像でしかないのかもしれないとも思います。
「いや、そんなドラマみたいに、180℃人生が変わった、みたいにはならないよ。がんだからって、そんな風に決めつけないでほしい。」と言う方もおられるのではないか。

でも、そんな程度のことも、今の僕には分からない。分からないんです。
どんなことが病気の方々を傷つけて、どんなことで勇気付けられるのか。

色々動いてみて、どうしても役に立てないなら、撤退するしかありません。
それは、仕方ないことです。

ただ、恐れずにやってみようとは思うのです。

生きるということと、改めて向かい合うこととなった方々の中に、もし届けるべき声と想いが生まれたとしたら、形にするべきだと思うのです。

僕はいつからか…いつからかは、はっきりしています。3.11の震災のときからですね。
家族写真の撮影を始めたきっかけも同じです。(僕は家族写真家です。https://famiphototokyo.com/)

大地の震え、街の暗闇、海の音、人々の叫び声。

” 今 “の次の瞬間が、” 今 “と同じように続いていくとは限らないんだ、という事実が、僕の中にはっきりと刻み込まれました。

その感覚は、震災から8年たった今も、当時と変わらず残っています。

” 今 “という概念に、強く強く意識的であること。

それだけが、僕ががん患者の方々を「撮る資格」になりうるかもしれないと考えています。

「ありがとう」と言われる日を信じて。

2019.08.28